毎週、月、水、金に担当していた日本テレビのバイリンガルニュースが終わって帰宅するのが、
いつも夜中の1:30から2時。
ところが、火曜、木曜はというと、もっと疲れる仕事だった。
帰宅は同じく夜中の1:30から2:00だった。
昼の3:00ごろの新幹線に東京駅から乗車して、名古屋で下車して、
名古屋の通訳養成スクールで6時30分から9時の2時間半の1クラスだけを教えに行っていた。
今考えると、9時にレッスンを終えて、よくも21:15発の東京行きに乗車できたな、と不思議だ。
だって、新幹線に乗車するまえに、地下鉄に乗って2駅目で名古屋駅なので、スクールから地下鉄まで
走って、地下鉄に2駅乗車して、新幹線のホームまでまた、猛ダッシュして、1回も乗り遅れたことがない。
それどころか、ときどき新幹線の駅のホームできしめんを食べる余裕すらあった。
今思い出しても、どうやって間に合っていたかが思い出せないが、でもこれ、本当の話!
帰りは東京駅でなく、新横浜駅で下車なので、車中で眠れなかった。
新横浜駅から、JR横浜線で菊名駅、そして東横線で網島駅、そしてそこから
タクシーで帰宅。
よくも2年間も続いたものだ。
なんで2年間もがんばることができたのか?
私にそこまでがんばらせたのは、生徒の熱意、受け皿だった。
名古屋にはあまり通訳教えてくれる先生がいないということを聞き、
是非お願いしたいと頼まれただけあって、生徒の目つきは必死だった。
東京では1クラス30名くらいだが、名古屋はいつも5名。
がんばる人にはムリをしてでも役立ちたいと私も思った。
東京の生徒もがんばっておられたが、私は名古屋の生徒さんが大好きだった。
一人ひとりと友達にもなれた。
やりがいを感じた。
でも、残念ながら、名古屋からは有名な通訳はデビューしなかった。
それでも、あおの2年間は私にとって、一生のいい思い出になっている。
さて、そういうわけで、月曜から金曜の私のスケジュールはというと
売れっ子の芸能人並みの酷いものだった。
9:00amから通訳学校に出社してフルタイムで働いて、その上さらに
日本テレビの深夜ニュース番組の仕事、と 18:30からの名古屋の通訳学校で教える仕事
だったので、過酷だった。その当時30代だったからできたことで、
来月65歳を迎える今はとてもできない。